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更新: 2025/11/10

ただ会えただけで嬉しかった——嵐・生配信を「肩透かし」と呼ぶ報道への違和感

ただ会えただけで嬉しかった——嵐・生配信を「肩透かし」と呼ぶ報道への違和感

5人そろった嵐の1768日ぶりの生配信。

11月3日、デビュー26周年の日。配信タイトルは「生配信だヨ嵐会2025」。

特別な発表はなかったけれど、それでもあの日は、ファンにとってちゃんと”特別”でした。

でも、記事の語り口は少し違っていました。

参照元記事: 嵐が1768日ぶりの生配信 “何も言えなかった”理由 コンサート詳細や今後についての発表は一切なしでも「ファンとの時間も持つこと」こそが重要か


🕊️ 「発表がない=肩透かし」という決めつけ

記事はこう書きます。

「コンサートの詳細や、嵐の今後についての発表は一切なし。肩透かしを食らったファンも少なくなかったようだ」

でも、「肩透かし」と感じたのは誰でしょうか。

記事は具体的なファンの声を引用せず、「少なくなかったようだ」という曖昧な表現で、あたかも多くのファンが失望したかのような印象を作っています。

実際には、SNSでは「5人に会えて嬉しかった」「ただそこにいてくれるだけで十分」という声も多く見られました。

「発表がない」ことを“ニュース的な欠落”として扱うのは、記事側の視点です。

ファンにとっての価値は、もっと別のところにあったかもしれません。


🎙️ “関係者談”が積み重なる、見えない主語

記事にはこんな”関係者の声”が並びます。

「ダイエットにも取り組んで10kg近く減量したとか」(芸能関係者)

「来年5月までに出す新曲の制作が進んでいるという話があります」(音楽関係者)

「“精神のリハビリ中”であることは間違いありません」(芸能関係者)

誰が言ったのか、どこまで確認されたのか——それは書かれていません。

「〜とか」「〜という話」「間違いありません」という言葉が並ぶとき、推測が事実の服を着始めます。

SmokeOutでは、これを「推測の事実化(Speculative Assertion)」と呼びます。

匿名の証言が積み重なると、読者は「きっとそうなんだろう」と受け取ってしまう。

でも、本人たちの言葉ではない以上、それは“事実らしきもの”でしかありません。

“He/she will make sure to clearly distinguish factual information from commentary and criticism.”

「意見・推測・事実を明確に区別せよ」

IFJ Global Charter of Ethics


👕 「長袖=隠した」という推測の危うさ

記事にはこうあります。

「宮古島では、タトゥーを人に見られても気にしないで過ごしていますが、配信では長袖を着て隠していたようです。“嵐のメンバー”として公の場に出るという気持ちの切り替えがあったんでしょう」(芸能関係者)

これは関係者の推測として書かれていますが、読者には「事実」のように伝わります。

でも、11月3日。東京も肌寒くて、誰でも長袖です。

衣装の統一感、照明とのバランス、スタイリングの意図——いろんな理由がある中で、「タトゥーを隠すため」という一つの解釈だけが記事に残る。

大切なのは「何を着たか」ではなく、「どう会ってくれたか」です。

配信の中で5人が見せた笑顔や、久しぶりの”わちゃわちゃ”ぶり。

そちらの方が、ファンにとっては何倍も意味のあることだったはずです。


🪞 「何も言えなかった」の裏にあるもの

記事のタイトルにもある「“何も言えなかった”理由」——。

これは、まるで「言うべきことがあったのに言えなかった」かのような印象を与えます。

でも本文を読むと:

「リリースはまだ先のよう。コンサートについても同様で、目下、会場を押さえるべく調整が続いているようです。ただ、どちらも発表できるタイミングではなく、何も言えなかったのでしょう」(音楽関係者)

つまり、「言えなかった」のではなく「発表する段階ではなかった」ということ。

準備中のことを無理に発表する必要はありません。

それなのに、「何も言えなかった」という言葉を見出しに持ってくることで、“沈黙=問題”という空気を作ってしまう。

でも、沈黙にも意味がある。

記念日にただ会う。それだけで、ファンとのもう十分な物語が始まっていたのかもしれません。


💬 SmokeOutまとめ

この記事の本当のポイントは、「推測を事実のように語る構造」です。

- 「肩透かしを食らったファンも少なくなかった」→ 具体的な声なし

- 「長袖で隠していた」→ 関係者の推測

- 「精神のリハビリ中であることは間違いない」→ 断定の根拠なし

- 「何も言えなかった」→ 「発表段階ではなかった」を問題化

匿名の”関係者”による推測が、いつの間にか“事実らしきもの”として積み重なっていく。

これが繰り返されると、読者は「5人が何かを隠している」「ファンが失望している」という印象を持ってしまいます。

けれど、記念日にただ会う。

特別な発表がなくても、「5人で顔を合わせた」こと自体が、ファンへの答えでした。

ニュースとしては”情報不足”でも、感情としては”満たされる”時間がそこにあった。

発表がないことを”ニュース”に仕立てるよりも、沈黙を尊重する報じ方があってもいい。

そして、ファンにとっての「安心」は、誰かの推測ではなく本人たちの声から生まれます。


🔖 透明性ボックス

  • 本稿は記事表現・構成の検証であり、アーティストや関係者の評価を目的としません
  • 引用は原文より抜粋・要約しました
  • 更新日:2025-11-11(JST)

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