まず「何が起きたのか」を整理する
元記事がベースにしている“出来事”自体は、かなりシンプルです。
- M-1側:「レッドカーペットのオープニングアクトで、M-1をテーマにした3分漫才をやりませんか?」という提案
- 令和ロマン側:大会やファイナリストへの影響を考慮して、「しんどい」、「あそこ出る人以外漫才しちゃダメ」としてやんわりお断り
くるまさんはYouTubeで、
「やれと言われたらできるけど、ボケが出演者と被るかもしれないから難しい」
といった懸念をかなり丁寧に話しています。
本来は、
「M-1運営が“盛り上げ案”を出す」
「令和ロマンは“大会やファイナリストへの影響”を考えて断る」
という、プロ同士の真っ当な協議の話です。ここから、記事がどう“対立構造”に持っていくかを見ていきます。
ラベリングの煙:「無謀」「騒然」は誰の言葉か
まず、見出しを分解してみます。
令和ロマンくるま、M-1運営の”無謀な演出”を拒否
「王者による開幕漫才」打診にお笑いファン騒然
ここで違和感があるのが「無謀な演出」と「お笑いファン騒然」という2つのラベルです。
本文を確認すると、M-1側を「無謀」と評しているのは、番組サイドの公式コメントでもなく、くるまさんの直接の発言でもなく、記事側が勝手につけたまとめフレーズです。
実際のトーンは、
「やれと言われたらできる」
「あそこ出る人以外漫才しちゃダメよ」
という、演出の意図も理解しつつ昨年まで出場していた立場での冷静な判断です。
それを「無謀な演出を拒否」とラベリングすると、運営=無謀な案を出す側、令和ロマン=それを退けた側、という色分けが一気に強まります。
また、本文で紹介されているのは、
《誰が考えたんだ、こんなイタい演出》
《冒頭で連覇王者が漫才やったらあとに出る芸人さんたちが気の毒すぎる…》
といったコメント例です。
しかし、
- どの程度の規模でそうした声があったのか
- 「見てみたかった」という反応はなかったのか
は書かれていません。
限られたサンプルを「騒然」とまとめることで、世間が運営を批判しているような印象が生まれます。
構成のトリック:別テーマへの接続で印象を重ねる
中盤から、記事は次のような流れに入ります。
「幻のオープニング漫才」の話
↓
このところの”M-1は過剰演出が目立つ”
↓
ドキュメント・中継・審査員紹介で「漫才開始が放送45分後」
↓
「もう少しコンパクトに見せてほしい視聴者は多いのでは」
ここで起きているのは、本来別々に議論できるテーマの接続です。
- 「オープニング漫才案への令和ロマンの判断」
- 「番組全体の演出ボリュームへの視聴者の反応」
この2つは、それぞれ独立した論点です。ところがこの記事では、令和ロマンが断った案が「演出過多の象徴」のように位置づけられ、「やっぱりM-1は最近やりすぎなんじゃないか」という印象の流れが自然に作られています。読者は、個別の出来事を読んでいるつもりで、いつの間にか「M-1演出批判」という大きな物語の中に案内されている、これが構成による印象操作の一例です。
引用の積み方:ネットの声と(謎の)専門家で”正解”を固める
記事には、ネット上のコメントと放送作家のコメントが登場します。
放送作家のコメントでは、
「初連覇した令和ロマンが漫才を披露した場合、大会の微妙な空気を左右してしまう可能性を感じた高比良さんの感覚は正しいと思います」
と、くるまさんの判断を肯定しています。ひとつの専門的見解として理解できます。(そもそもこの放送作家って誰?というモヤモヤは残りますが)
さらに、この評価が、
「無謀な演出」(見出し)
「誰が考えたんだ、こんなイタい演出」(ネットの声)
「お笑いファン騒然」(見出し)
と重なって積み上がると、「M-1運営の案は、プロから見てもファンから見ても”間違い”だった」という結論が既定路線のように見えてきます。
本来は、
- 運営:大会を盛り上げる演出を模索した
- 令和ロマン:大会の空気や出演者へのリスペクトを考えて慎重になった
という、どちらもM-1グランプリのことを考えている構図のはずです。
しかし引用の積み方によって、「空気を読めなかった側」と「正しく判断した側」という一方通行の評価に収束していく、これが引用による権威付けの効果です。
じゃあ、どう書けたら“煙”が薄くなる?
今回のテーマそのものは、ちゃんと扱えば面白い論点です。
- 「前年のM-1チャンピオンは、毎年どう扱われるべきか」
- 「オープニングアクトと大会の緊張感のバランス」
- 「テレビ的な盛り上げと、コンテストのフェアさの両立」
SmokeOut視点での“空気をきれいにする書き方”のイメージは、例えばこんな感じです。
1️⃣ 見出しのラベルを少しだけ冷静にする
例:「令和ロマンくるま、『王者開幕漫才』案に慎重姿勢 —— M-1の“演出と緊張感”のバランスをどう取る?」
「無謀な演出」「騒然」ではなく、“慎重な判断”と“バランス”をキーワードにするだけで、「M-1 vs 令和ロマン」の対立記事から、「演出論のコラム」に変わります。
2️⃣ 運営の意図もちゃんと書く
- なぜそのオープニング案が出てきたのか(例:チャンピオンの存在感を生かしたい、新規視聴者にとっての導入になる 等)
- 令和ロマンの懸念(出演者とボケがかぶる、空気を変え過ぎる)との両立が難しいポイント
を並べると、「どちらの言い分も分かるし、ここからどう設計するかが議論ポイントだよね」
という読み方が可能になります。
3️⃣ 「M-1過剰演出」の話はテーマを切り分ける
- ドキュメントや中継の分量は、「番組尺の設計」の話
- オープニング漫才案は、「チャンピオンの使い方」と「コンテストの公平感」の話
として、別々の切り口で扱うほうが、論点がクリアになります。
まとめ:対立を作らなくても語れるテーマ
この令和ロマンの記事がモヤモヤするのは、本来は「プロ同士の真っ当な演出相談」の話を、「無謀な運営」 vs 「それを拒否した王者とそれを批判する世間」という対立物語に寄せているからだと思います。
くるまさんのYouTubeでの語り口は、むしろ
「大会の空気をどう守るか」
「出場者へのリスペクトをどう示すか」
という、かなりまじめなお笑いの話に近いものです。
そこを丁寧に言葉にしてくれる記事が増えれば、ファンも「運営を一方的に叩く」方向に行きづらくなるし、運営も「企画を出したら即“無謀”と叩かれる」空気から少し解放されるはず。
同じ出来事でも、「対立構造」を強調するか、「どうすればもっと良くなるか」を言葉にするかで、ニュースが運ぶ空気は大きく変わります。
皆さんも記事を読んで終わらず、YouTubeを直接見ることをお勧めします。