🌙 タイトルで“物語”が始まってしまう
『なんか痛々しい』佐藤健、歌手としてツアー開始も“ナルシスト感全開ライブ”に戸惑うファン続出
見出しの中にすでに三重の構文があります。
- 「痛々しい」(否定的評価)
- 「ナルシスト感全開」(人格的ラベリング)
- 「ファン続出」(社会的多数の演出)
けれど、本文を読むとその“痛々しさ”の根拠はありません。
むしろ、記事自体がこう書いています。
「台北で行われた初日公演はソールドアウト。観客3000人が熱狂した」
「MCでは中国語を使って自己紹介し、台北での思い出などを語り、現地ファンとのコミュニケーションを楽しんでいた」
つまり、成功と熱狂の事実を描きながら、語り口だけがネガティブに設計されている。
これは SmokeOut が定義する 「印象転写(Framing by Contrast)」。
ポジティブな事実を“否定語”のフィルターを通して読者に伝えることで、無意識に「違和感がある」という印象を生む技法です。
💬 “ファン続出”って、どこの誰?
記事が示す根拠は、この3つだけです。
《かっこいいし歌も上手いんだけどなんというか、見てると恥ずかしくなるナルシスト感全開というか》
《健はん、どこを目指してまんのや》
《なんか痛々しい》
3件。
それだけで“ファンが戸惑う”、“続出”と書かれている。
ここでの論理の飛躍は明白です。
- 投稿の出典が不明(何のSNSか不明)
- 書き手がファンである証拠がない
- 母数が明示されていない
なのに、記事はこう書きます。
「アーティストとしての姿は未だに慣れないファンもいるようだ。」
「~もいるようだ」構文。
典型的な推測語尾で、裏付けのない印象を“ファンの声”として転写しています。
“Journalists should not present isolated social media opinions as representative of public sentiment.”
「記者は、個別のSNS投稿を社会的意見として扱ってはならない。」
🎬 “ナルシスト”という言葉の短絡
記事はこうも書きます。
「金髪を逆立てた“ツンツンヘア”で、バンドのボーカルらしいワイルドな印象」
「そんなシックな衣装と金髪のコントラストが目立っていた」
見た目の描写にすぎないのに、見出しでは「ナルシスト感全開」に変換されています。
つまり、外見の変化 → 自信過剰の人格表現という飛躍。
けれど、そんなに簡単にラベリングできるのでしょうか
公開されたメイキングムービーには、楽器経験がほぼゼロだった佐藤健、宮﨑優、町田啓太、志尊淳が、1年以上の年月をかけて練習に取り組んだ様子が収められている。
TENBLANKのメンバーを演じた佐藤はベースとピアノ、宮﨑はドラム、町田はギター、志尊はキーボードとベースを担当。
映像には、楽器と真剣に向き合う姿や、演奏しながらセリフを放つシーンのリハーサルなどが収められている。
このような作品にかけた情熱や想いを安易に“ナルシスト”と呼ぶのは、努力を感情的なラベルで矮小化する行為です。
“Journalism should avoid speculative or sensational coverage of personal performance or appearance.”
「ジャーナリズムは、個人の表現や外見を憶測的・扇情的に扱うべきではない。」
🪞 “ファンの声”を免罪符にしないで
この記事で繰り返し出てくるのは、「ファンの戸惑い」「ファンの声」。
でも、“ファン”という言葉は、しばしば報道が批判を中立化するための免罪符(Vicarious Framing)として使われます。
本当のファンは、こうした断片的なSNS投稿ではなく、1年以上の練習、演奏シーン、そして「挑戦する誠実さ」を見ている。
“痛々しい”ではなく、“努力が伝わって嬉しい”と語る人が多数派です。
それを切り取らずに、“違和感”だけを並べる。
それはもう、“批評”ではなく“煽動”に近い。
「違和感」と「進化」の境界を見誤らない。
挑戦を続けることはとても難しいこと。
目新しい姿を“戸惑い”で括るより、その努力を“進化”として伝えるメディアが増えてほしい。
🌱 まとめ:まっすぐな挑戦をまっすぐに受け止めたい
✓ SNSの3件だけで“続出”と書かれていない?
✓ 見出しの否定語が、事実と逆を描いていない?
✓ “ナルシスト”という言葉が、努力を奪っていない?
“痛々しい”と書かれたその文字の向こうに、たくさんの練習と、まっすぐな挑戦がある。
王道のエンターテイメントを、照れずにやれたらと思っています。